南キャンパス

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初代農場長 原 凞(はら ひろし)博士について

原 凞(はら ひろし)博士

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原凞は、東京帝国大学農科大学農学科の園芸学講座を担当しながら、初代附属農場長を約23年間歴任されました。同時に、東京農工大学農学部の前身である実科主任と、東京教育大学(筑波大学)農学部の前身である農業教員養成所講師も併任されました

農家が栽培する作物種や規模の違いが、農家の収入に及ぼす影響を正確に調査するために、農家を農場内に再現した経済農場を設けるなど、実学を重視した教育を重んじ、園芸学界の第一人者として多様な人材を多々輩出しました。この実学重視が、原凞の評価を高めることを妨げた要因とも言えます。しかしながら、原凞の功績は以下のように多岐に渡り、まさに超人的であると言えます

まず、本学農学科の園芸学講座を果樹・野菜・生産花卉を扱う園芸学第一講座外部リンク とし、新たに造園・展示花卉を扱う園芸学第二講座外部リンク を創設しました。この間、「公園の父」と称されている林学科の本多静六博士とともに、学科を横断して造園学講義を開設し、造園・園芸教育の拡充に尽力しました。よって、原凞は「庭園の復興者」と称されるに値すると言えます

明治神宮外部リンク 内苑・外苑の造営に関わった際には、才能溢れた多くの若い研究者を招き、指導しながら実務に就かせました。この結果、多くの優れた専門家が地方に赴任し、今日の地方自治体の公園緑地行政の基礎も築いています。さらに、日本庭園を東洋独自の芸術とみなし、荒廃していた文化財庭園の名勝指定への道筋も作っています

東京農業大学や東京府立園芸学校、実践女学校高等女学部などでも教鞭をとり、女子教育にも尽力した一方、教育者の面だけではなく、造園研究発表の場として、1923(大正12)年に園芸学会外部リンク を創設し、初代理事長・会長に就いてもおり、研究を軽視していたわけではありません

他にも、渋柿の「平核無(ひらたねなし)」を命名し、渋抜き方法も教えたり、新種の作出や多くの外国野菜の導入・順化など、教育研究だけでなく、農業現場への普及にも尽力されています

略歴
 
 1868(明治元)年
 1892(明治25)年
 1893(明治26)年
 1896(明治29)年
 1896(明治29)年
 1897(明治30)年
 1899(明治32)年
 1899(明治32)年
 1899(明治32)年
 1906(明治39)年
 1907(明治40)年
 1911(明治44)年
 1913(大正2)年
 1915(大正4)年
 1916(大正5)年
 1916(大正5)年
 1922(大正11)年
 1923(大正12)年
 1927(昭和2)年
 1929(昭和4)年
 1929(昭和4)年
 1929(昭和4)年
 1934(昭和9)年
 1934(昭和9)年
 加賀藩生まれ
 帝国大学農科大学助手
 農商務省 農商務技手
 台湾総督府 民政局技師
 台湾総督府 拓殖務技師
 農商務省 林務官 東京大林区署
 東京帝国大学農科大学助教授
 農業教員養成所講師
 東京帝国大学農科大学農学実科主任
 東京帝国大学農科大学附属農場長(初代)
 園芸学講座分担
 東京帝国大学農科大学教授
 農学博士(東京帝国大学)
 明治神宮造営局参与
 兼六園工事設計及び監督
 園芸学講座担任
 金杯(明治神宮造営への尽力)
 東京帝国大学評議員
 明治神宮外苑管理評議委員
 東京帝国大学退職
 従三位
 東京帝国大学名誉教授
 旭日重光章
 逝去

原 凞先生の胸像設置について

原 凞先生の胸像

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原凞先生の胸像は、1940年4月に門下生の丹羽鼎三(にわ ていぞう・元東京大学名誉教授・日本造園学会外部リンク 初代会長)が総代として、弥生キャンパス外部リンク 圃場内に建立されました。その後1970年頃に圃場の温室拡張に伴い、園芸学第二講座(現 緑地創生学研究室)に移設・保管展示されてきました

一方、4個の石を組み合わせた台座部分は、千葉市外部リンク 検見川の旧附属緑地植物実験所にて保管されてきましたが、附属農場との統合・廃止により、田無キャンパスの附属生態調和農学機構に移設・保管されていました

原凞先生は、上記のように初代農場長を長期に渡って務められたことから、田無キャンパスの大規模な整備に合わせ、縁深い同キャンパス内の農場博物館並びの旧水禽池を臨む位置に復元・設置されることとなりました。なお、原凞先生の視線は、勤務地であった現在の駒場キャンパス外部リンク を見つめています

なお、胸像と台座の製作者は不明です

台座左側の碑文

台座の碑文


 農学博士
 原煕先生ノ遺
 徳ヲ慕ヒ門下
 生有志等茲ニ
 謹而之ヲ建ツ
  昭和十五年四月
   門下生有志総代
      丹羽鼎三

 のうがくはくし はらひろしせんせいのい とくをしたいもんか せいゆうしらここに つつしんでこれをたつ
  しょうわ15ねん4がつ もんかせいゆうしそうだい にわていぞう
    注:本名の「凞」ではなく「煕」と記されている
    注:「茲ニ」は「ここに」
    注:「謹而之ヲ」は「つつしんでこれを」

旧水禽池と蛇体鉄柱式共用栓

旧水禽池

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旧水禽池一帯は、駒場から田無へ附属農場が移転した時点では、飼畜場でした。「水禽」は「アヒル」のことであり、当時は食肉用ではなく、採卵が主目的であったようです。アヒルの卵は、鶏卵よりも少し大きくて黄身が多く、栄養価も高いので、当時は高価であったようです。今日でも「ピータン」は、主にアヒルの卵を原料としています。ちなみに、「北京ダック」もアヒルであり、鴨肉もアヒルの肉のこともあるようですが、アヒルは野生の鴨を家禽に品種改良した鳥なので・・・

なお、飼畜場にはアヒルの他にも、乳牛・役馬・役牛・鶏・豚・羊・山羊などが飼育されていました。農場博物館の建物は、ほぼ当時の姿の旧乳牛舎です

水禽池は、とある事情で埋められてしまい、存在が忘れられていました。ここ数年に渡る大規模キャンパス整備の一環で、発掘に成功したのですが、壁面の一部が壊されていました。発掘してみると、水禽池の水深は2m程度あり、人が転落した場合は非常に危険ですので、壊された壁面を修復し、排水設備を作り直してから、石を詰めて水深を15〜20cmになるようにしました。つまり、転落防止柵が景観を壊すことを防ぐのを優先したということですが、故意に池には入らないでください。現在は、防虫対策としてアヒルではなく、メダカが泳ぎ、睡蓮の池になっています

旧水禽池の蛇体鉄柱式共用栓

排水口同様、給水口も使い物にならない状態でしたので、旧水禽池の給水口に「蛇体鉄柱式共用栓」を設置しました。この共用栓は、旧二宮果樹園の池に噴水のように設置されていたものです

横浜市水道70年史によると、清国の広東水道を設計した香港政庁イギリス陸軍工兵中佐パーマー(Henry Spencer Palmer)が1833(明治16)年に来遊した時に、神奈川県外部リンク がたったの3ヶ月間契約して水道の調査設計を依頼したのが、日本近代水道の幕開けとされています。報告書の中でパーマーは、各家に配管するのは現実的ではないので、道端に大型の共用栓を設けるよう進言しています。なお、本国のイギリスでは共用栓は不便で、浪費も多く使い物にならないが、日本人の気質を考慮すれば問題ないとしています

また、東京都水道歴史館外部リンク の解説によると、最初の共用栓はイギリスから輸入されたものであり、西欧での水神である獅子(ライオン)の口から水が出ていたとされています。東京の共用栓外部リンク は、東洋の水神は龍であるので、獅子を龍に変更して日本で製作されたものであり、「蛇体鉄柱式共用栓」と称し、蛇口の語源になったとされています。つまり、水の吐出口の獅子や龍ではなく、鉄柱の蛇腹模様が優先されたようです。共用栓を利用するときは、4方向の側面にあるいずれかの穴に鍵を差し込み、水を出します

旧二宮果樹園は、外交官から横浜正金銀行の頭取に転身した園田孝吉男爵の別荘跡地に設置されており、旧水禽池に設置した共用栓の吐出口は獅子ですので、東京水道用の日本製ではなく、横浜水道用であった可能性が高いと推測されます

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