歴史的建造物


南キャンパスに現存する歴史的建物群


小屋の中にある家

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① 旧「第一収納舎(だいいちしゅうのうしゃ)」

 1930(昭和5)年10 月に完成した床面積が25 坪(83 ㎡)の建物です。田無農場(当時の公式名称は「多摩農場」)で最も古い建物の一つで、現在でもほぼ建築当時の姿を留めています。例えば、収穫した麦の天日干しをするとき、夜間や雨天の日などに麦を収納しておく施設として建てられました。⾧方形の木造平屋建ての切妻(きりづま)屋根は、棟(むね)に⿁瓦、袖瓦の横に風切丸(かざきりまる)が葺(ふ)かれた桟瓦(さんがわら)葺きです。また、外壁は横羽目板(はめいた)の南京下見(なんきんしたみ)板張り(鎧張(よろいば)り)になっており、黄土色に改修されている漆喰の矢切(やぎり)には換気用のガラリ(ルーバー窓)を備え、平入(ひらいり)になっています。このように外観は純和風ですが、真束小屋組(しんづかこやぐみ)(キングポストトラス)という洋風の構造で屋根を支えています。

 これらの建築様式は、農場が駒場から田無へ移転した1935(昭和10)年前後に建てられた農場建物に共通しており、建物の設計は東京帝国大学営繕課が行っています。なお、当時の営繕課⾧は、後に総⾧を務めた内田祥三(うちだよしかず)建築学科教授が兼務していました。

 正面(西面)から見て左側は17.5 坪のコンクリート土間になっており、正面と背面にある4 枚の引き込み戸は上下にレールが4 本ずつあり、両面大開口可能な土間に収穫物を収納できるようになっています。また、側面(北面)の高い位置には引き違い窓が3 つ並んでいます。注目すべきは、上部レールの頑丈な金物と2 枚枘接(ほぞつ)ぎされている大扉です。

 正面から見て右側は床と天井がある7.5 坪の部屋になっており、正面には片開き戸、背面には引き違い窓があり、側面(南面)の高い位置には引き違い窓が3 つ並んでいます。また、引き違い窓には面格子が取り付けてあり、防犯対策がなされています。田無農場には4 つの「収納舎」が1934(昭和9)年までに建てられていました。現存しているのは「第一収納舎」のみですので、「収納舎」に改称されています。

 2022(令和4)年に人工光を利用した植物栽培室を設置し、スマート農業の研究に使用しています。


屋根のある家

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② 旧「作業室(さぎょうしつ)」

 1930(昭和5)年10月に完成した床面積が18.6坪(61㎡)の建物です。農作業の準備や農機具の補修などの作業をするための施設として建てられました。

 「第一収納舎」とともに田無農場で最も古い建物の一つです。なお、これら2棟の他に「第一便所」・「管理人詰所」・「第一農夫舎」が同時に建てられましたが、いずれも現存していません。「第一便所」は「作業室」の南側に位置し、「管理人詰所」と「第一農夫舎」は現在の水田東側にあった「経済農場」の建物群でした。

 正面(西面)から見て左側は13.65坪、右側は4.95坪のコンクリート土間になっています。建築当時は「第一収納舎」と同様の建築様式となっていましたが、外壁がモルタル壁に改修され、木製の扉や窓も変更されています。なお、キリの悪い広さの間取りになっているのはこの建物のみですので、予算の関係で切り詰めたとも考えられます。

 庇(ひさし)を支えている正面の左から3番目の方杖(ほうづえ)は撤去され、これを挟んであった両開き戸とランマ付引き違い窓は撤去され、現在はシャッターが取り付けられています。さらに、窓の右隣にあったランマ付引き違い窓も鋼製サッシ窓に改修されています。正面の右側から2番目と3番目の方杖の間は引き違い戸になっていましたが、現在は幅が半分の鋼製片開き戸になっています。

 ランマ付引き違い窓は、両側面(南面および北面)に2つずつ並び、背面(東面)の狭い部屋部分に1つ、広い部屋部分に3つ並んでいましたが、いずれも鋼製サッシ窓に改修されています。

 昭和時代の後半に数種類の工作機械が設置されるようになったので「工作室」に改称されていますが、現在は南キャンパスで使用する農機具類の格納庫となっています。


建物の前に立っている家

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③ 旧「孵化室(ふかしつ)」

 1937(昭和12)年11月に完成した床面積が10坪(33㎡)の建物です。飼養されていた鶏(にわとり)やアヒルの卵を人工的にかえし、雛(ひな)を育てるための施設として建てられました。

 「第一収納舎」よりは「堆肥舎及液肥舎」に似た作りになっていますが、正面(南面)から見て左右非対称な切妻屋根が特徴的な、最も建築当時の姿を留めている建物です。

 正面から見てやや左側(西側)にある片開き戸の出入口には、御影石を加工した沓摺石(くつずりいし)が付いています。室内に入るとコンクリート土間の小さな風除室になっており、左右の部屋に通じる片開き戸が両側にあります。

 右側(東側)のコンクリート土間の部屋には、備え付けの2段ベッドがあり、東側の屋根の棟(むね)近くに煙突があります。この部屋の正面と東側面には引き違い窓があり、背面(北面)には片開き戸と引き違い窓があります。この部屋では、電気孵卵(ふらん)器(恒温器・インキュベータ)を用いて雛を孵化させていたと考えられます。

 一方、屋根が腰の高さまで下がっている左側(西側)の部屋は、土を固めた土間になっています。正面と東側面の低い位置に引き違いがあります。また、正面と背面の角には、火鉢などの暖房器具置場と考えられる小屋部分が張り出しており、育鄒(いくすう)室であったと考えられます。

 畜産施設ですので、飼畜場の近くに建てられても不思議ではないのですが、解体撤去された実験室やガラス温室などとともに、研究色が強い建物群の一角に建てられています。童話に登場してきそうな可愛らしい姿が際立っており、人気のある農場建物です。

 鶏やアヒルの飼養が終了した後は資材などの倉庫になったため、「材料置場」に建物名称が変更されています。


④「学生準備室(がくせいじゅんびしつ)」

 1934(昭和9)年3月に完成した床面積が17坪(56㎡)の建物です。農場実習や研究に通ってくる学生のための更衣室や控室を備えた施設として建てられました。なお、初めて女子学生が農学部に入学したのは1946(昭和21)年でした。

 屋根がスレート屋根(コロニアル)に改修されていますが、それ以外は建築当時の姿をほぼ残している「第一収納舎」と同様な建築様式の建物です。

 正面(西面)に片開き戸が2つ並んでいるのは、室内が2部屋の間取りになっているためで、建築当時は沓摺石(くつずりいし)がありました。また、両部屋には4隅に換気孔がある天井が張られています。

 正面から見て右側(南側)は10坪の学生控室となっていて、台形のコンクリート土間を上がると北側に2畳分の押入れを備えた15.5畳の板張りの床になっていました。現存する東西南の3面に1つずつあるランマ付引き違い窓は、建築当時のままとなっています。

 正面から見て左側(北側)は7坪の更衣室となっていて、北側に伸びたコンクリート土間を上がると11畳の板張りの床となっていました。西側の土間の壁には下足箱が、床には腰掛けと衣類・帽子掛けがそれぞれ50人分備わっており、1度に農場を利用する当時の学生数が想像できます。また、北面には引き違い窓を挟んで両側に片開き戸があり、外側にある手洗いを備えた足洗い場からも更衣室に出入りできるようになっています。なお、手洗いと対面するコンクリート腰壁に水栓がそれぞれ5つずつありましたが、手洗い用のみ現存しています。下足箱の上部にある引き違い窓と東側のランマ付引き違い窓は建築当時のままです。

 田無本館ができるまで90年近く更衣室として使用されてきましたが、2023年(令和5)にトイレに改修されています。


⑤「材料置場(ざいりょうおきば)」

 1933(昭和8)年9月に完成した床面積が20坪(66㎡)の建物です。作物の栽培や家畜の飼養のために用いる資材置場として建てられました。

 建築当時は「第一収納舎」と似たような建築様式となっていましたが、外壁がモルタル壁に、屋根はトタン屋根に改修されています。「第一収納舎」と異なるこの建物の特徴的な点は、越屋根と屋根裏部屋があることに加え、対束小屋組(ついづかこやぐみ)(クイーンポストトラス)という洋風の構造で屋根を支えていることです。

 越屋根の桟瓦葺きはトタン屋根に改修されていますが、ガラリ(ルーバー窓)や引き違い窓は建築当時の姿を残しています。また、北側の矢切(やぎり)にはガラリではなく、はめ殺し窓が設けられており、屋根裏部屋の採光および換気の機能を持たせています。

 建築当時、正面(東面)中央に幅6尺の両開き戸が、背面(西面)と北側面のそれぞれ中央に幅6尺の引き違い窓があり、西側面には外階段が設けられ、4尺の片開き戸から屋根裏部屋に出入りできるようになっていましたが、庇の方杖配置とともに窓や扉は大幅に変更されています。

 コンクリート土間になっている室内の間取りも、建築当時は3部屋で構成されており、中央の8坪の部屋を挟んで両側に6坪の部屋がありました。正面から見て左側の棚が備わっている部屋には幅6尺の引き分け戸で、右側の押入れが備わっている部屋には幅6尺の引き違い戸で出入りする仕立てになっていました。なお、現在では2部屋構成に変更されています。

 建築当時のままの屋根裏部屋の中央部の床、すなわち1階中央の部屋の天井の一部は取り外しできるようになっており、屋根裏部屋に収納していたと考えられる乾草(干草)や敷料(藁(わら))を、1階に進入させたトレーラや荷車に簡単に積み込むことができるようになっています。この開口部を設けるために、この建物だけ対束小屋組(クイーンポストトラス)にしたと考えられます。この仕組みはキング式畜舎に見られる構造ですが、「旧牛舎」などの田無農場の畜舎群には採用されておらず、「材料置場」にだけ採用されています。


屋根のある家 
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⑥「農具舎(のうぐしゃ)」

 1932(昭和7)年5月に完成した床面積が50坪(165㎡)の建物です。様々な種類の農機具の格納庫として建てられました。

 建築当時は「第一収納舎」とほぼ同様の建築様式となっていましたが、外壁がモルタル壁に、屋根は瓦棒(かわらぼう)がある縦葺きの金属屋根(トタン屋根)に改修され、正面(東面)右側に2㎡の燃料置き場が増築されています。なお、注目すべきは、軒桁(にきげた)の端部が寺社建築に見られる木鼻のような加工が簡単に施されていることです。このような加工は他の農場建物では見られず、大事なものが入っている建物という配慮がなされたものと考えられます。また、ほぼ建築当時の姿を残している30尺×60尺の真束小屋組(キングポストトラス)の機能美は一見の価値があります。

 コンクリート土間になっている室内は25坪ずつに二分されていましたが、壁と4枚引き違い戸が撤去され、現在は1室になっています。

 正面から見て左側の部屋には、正面にそれぞれ幅6尺の引き分け戸とランマ付引き違い窓があり、背面(西面)と側面(南面)にランマ付引き違い窓が3つ並んでいました。壁には鎌置きと鍬掛けが、床には農具台が4台設置されており、人力農具が格納されていたと考えられます。現在では、正面と背面の扉や窓が撤去されて両面にシャッターが設置され、側面の窓は鋼製サッシ窓に改修されています。また、側面の外側には4つの給水栓がある溜水洗い場と3つの給水栓がある洗い場が設置されており、溜水洗い場は現存しています。

 一方、正面から見て右側の部屋には、正面と背面に幅5尺のランマ付引き違い窓と幅9尺の引き分け戸があり、側面(北面)にランマ付引き違い窓が2つ並んでいました。出入口の幅が広いことから、動力機械が格納されていたと考えられます。現在では、正面と背面の扉や窓が撤去されて両面にシャッターが設置され、側面の窓は撤去されています。

 現在は農場博物館大型機械館(非公開)として、乗用トラクタや作業機、果樹用重量選別機などが格納されています。


建物の前の家

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⑦旧「第三農夫舎(だいさんのうふしゃ)」

 1932(昭和7)年5月に完成した床面積が20.5坪(68㎡)の建物で、背面(西面)は便所部分が0.5坪分張り出しています。農作業を行う職員の休憩所や宿直のための施設として建てられました。

 ほとんどの木製窓はアルミサッシ窓に、屋根はトタン屋根に改修されていますが、これら以外は第一収納舎とほぼ同じ建築様式となっています。「農具舎」と同時に建てられましたが、1977(昭和52)年に当時の田無寮在住の大学院生の放火により全焼したため、現在の建物は創建当時の姿に再建されたものになります。

 コンクリート土間になっている室内の大部分は休憩室となっており、扉付きの食器入れや物入れ、流しがあり、壁には腰掛けが設置されていました。休憩室の正面(東面)中央に  引き違い戸(正面出入口)があり、それを挟んで両側に引き違い窓があります。引き違い窓は南側面と北側面にも1つずつあります。また、正面出入り口の左側扉の突き当たりには片開き戸があり、西側からも出入りできるようになっています。

 西側出入口の左隣(南西側)は0.5坪の押入れが付いた7畳の小上がりになっており、監視室と名付けられていました。おそらく、宿直での利用を主としていたものと考えられます。監視室には南側面と背面に1つずつの引き違い窓があります。また、西側出入口の右隣には便所になっており、大小便器がある2つの扉付き個室があり、大便器側には地窓が設けられています。便所の右隣に建築当時は井戸があり、その右隣(北西側)は脱衣所と浴槽を備えた浴室になっており、北側面の片開き戸から脱衣所に出入りする間取りになっています。なお、背面からも浴室に出入りできる片開き戸があります。井戸の部分に引き違い窓があり、浴室部分はコンクリート腰壁になっています。

これらの他、監視室の押入れの外側に当たる背面右端に水栓が3つある手洗いがあります。なお、手洗いの対面には水栓が2つある足洗いがありましたが、現在は撤去されています。

 田無農場には5つの「農夫舎」が1936(昭和11)年までに建てられていました。現存しているのは「第三農夫舎」のみですので、「農夫舎」に改称されています。

 便所や浴室を除いて、現在も職員の休憩場所として使用されています。


草の上にある建物

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⑧旧「堆肥舎及液肥舎(たいひしゃおよびえきひしゃ)」

 1934(昭和9)年6月に完成した床面積が30坪(99㎡)の建物です。有機質肥料の調製施設として建てられました。

 建築当時は「第一収納舎」と似たような建築様式となっていましたが、側面の引き違い窓はアルミサッシ窓に、屋根は波形スレート屋根に改修されています。「第一収納舎」と異なるこの建物の特徴的な点は、越屋根と背丈ほどの高さのコンクリート壁で囲まれ、その上部が矢切(やぎり)まで板張りされていること、および、妻入(つまいり)であることです。なお、越屋根の建具は建築当時のままとなっています。

 田無農場の南西側の一角には、土塁や柵で囲まれた畜産施設の「飼畜場」が設置されていました。「飼畜場」には、「鶏兎(けいと)舎」、「豚舎」、「羊舎」、アヒルを収容する「水禽(すいきん)舎」、「飼料調製室」、「堆肥舎及液肥舎」、「乳牛舎」、「酪農室」、農耕馬や農耕牛を収容する「役畜舎」、サイロである「埋芻(まいすう)室」の順に施設が設けられていました。なお、「水禽舎」に隣接して「水禽池」もあり、今般のキャンパス整備の一環で発掘され、復元整備されています。

 飼われている家畜の餌を賄うのが「飼料調製室」で、家畜の排泄物や敷き藁(わら)をこの建物に集積して堆肥(たいひ)と液肥に調製し、田畑に還元していました。このように、日本の伝統的農法は循環式農法であり、SDGsを先取りしていたのです。また、「飼畜場」の各施設は、軌間2 ft(610mm)、総延長約100mのトロッコ軌道(レール)で結ばれており、2両の形式が異なるトロッコで給餌と排泄物の回収を行なっていました。この建物と旧「乳牛舎」間には、レールとともに転車台(ターンテーブル)が現存しています。

 正面(東面)と写真にある背面(西面)に引き分け戸が設置されています。全面が堆肥調製用のコンクリート土間の室内中央にはトロッコ軌道が敷設されていましたが、現在はその姿を見ることはできません。また、壁際には排水溝が巡らされており、北側側面の外側に並んでいた6基の液肥溜に繋がっていました。乳牛にしておよそ20頭分の排泄物を処理することができたと考えられます。

 現在は農場博物館別館として、田植機などの農機具が展示されています。


⑨旧「乳牛舎(にゅうぎゅうしゃ)」

 1934(昭和9)年10月に完成した床面積が56坪(185㎡)の建物です。乳用家畜を飼養するための施設として建てられました。なお、背面(西面)は山羊小屋部分が2坪分張り出しています。

 「第一収納舎」とは異なる点が多いこの建物の特徴は、矢切(やぎり)を含めた外壁が縦羽目板張りになっている点で、建築当時は押縁(おしぶち)もありました。また、矢切には採光窓があり、越屋根もあり、妻入(つまいり)になっています。ただし、屋根の支え方は「第一収納舎」と同じ真束小屋組(キングポストトラス)となっています。「農具舎」とは異なる越屋根部分や無垢材の平角陸梁(ろくばり)を用いた36尺×54尺の小屋組(キングポストトラス)の機能美は必見です。

 室内のほとんどは乳牛用の施設となっており、コンクリート土間になっている室内の正面(東面)右側(北側)は、産室と犢(こうし・子牛)房が2部屋ずつ、牡牛房が1部屋あり、各部屋には引き戸が設置されていました。産室と犢房の広さは3坪で、牡牛房の広さは4坪でした。また、産室と犢房からは北側に塀で囲まれた28坪の運動場に出入りできました。

 一方、室内の正面左側(南側)には、10頭分の乳牛をつないでおくスタンチョンなどがありました。コンクリート腰壁にはガラリが7つあり、手前と奥にある両開き戸の間はランマ付引き違い窓になっていました。奥の両開き戸からは南側の塀で囲まれた10坪の運動場に出入りでき、戸のさらに奥のところが4頭収容できる山羊小屋になっていました。

 室内の中央にはトロッコ軌道(レール)が敷設されており、その一部は今でも見ることができます。トロッコ軌道は解体撤去された「役畜舎」を貫通して「堆肥舎及液肥舎」へと伸び、「堆肥舎及液肥舎」手前の転車台(ターンテーブル)を使って「豚舎」方面に伸びていました。

 正面と背面の引き分け戸とランマ付引き違い窓の配置は建築当時のままですが、1963(昭和38)年に両側面の戸は撤去され、両側ともランマ付引き違い窓に改修されています。さらに、内田祥哉(うちだよしちか)名誉教授(内田祥三元総長の二男)の助言を得て、2007(平成19)年に大規模な修復工事を行い、耐震性や防水性を向上させました。しかしながら、ほとんどの小屋組は建築当時のままで、一部のランマ付引き違い窓には大正ガラスが残っており、昭和時代の田無農場のシンボル的な佇まいとなっています。

 現在では農場博物館本館として、1878(明治11)年に駒場の農学校内に開場して以来、農場で実際に用いられてきた歴史的価値が高い農機具などに加え、農学校や農学部などで教材として収集されてきた農機具、および教科書などに利用された文化財的価値のある図解や書籍を中心に、「農業」・「食」の原点をテーマとした展示を行っています。


⑩「学生宿舎(がくせいしゅくしゃ)」

 1937(昭和12)年3月に完成した床面積が127坪(420㎡)の現存している農場建物としては最も大きい建物です。例えば、1週間連続で実習を行う学生のための宿泊施設として建てられました。交通が便利になった今では考えにくいと思いますが、当時は農学部キャンパスから田無農場に行き来するにはかなりの時間を要し、通学のための送迎バスが新宿駅間に走っていた期間もありました。

 2階建てや棟違い屋根、多くの窓にある欄干(らんかん)(手摺り)など、見た目の印象は異なるかも知れませんが、基本的には「第一収納舎」と同様の建築様式となっています。

 床面積が70.75坪の1階には、1.5坪分張り出した正面(南面)玄関には引き分け戸があり、コンクリート土間の両側には下足箱が、式台の先の上がり框(かまち)にも引き分け戸がありました。その先は幅9尺の廊下が突き当りまで続いており、玄関ホールを構成しています。この左側(西側)にはスチーム暖房のラジエータを備えた26畳と4畳半の自習室が2室あり、奥には幅4.5尺の階段があります。また、玄関ホールの右側(東側)にはスチーム暖房付き13.5坪の板張りの食堂が、その隣には土間を通じて東側面に出入りできる台所があります。食堂の北側は幅6尺の廊下になっており、東側の突き当りに階段が、階段の右隣りには6畳の暖房付き賄(まかな)い人室があります。階段下の手前から北側に廊下が伸びており、水栓が5つある洗面所、小便器と大便器がそれぞれ3個ずつある便所、脱衣室、浴槽付き浴室につながっています。

 玄関ホール左側の階段を上がった2階には、幅9尺のホールから東側に幅6尺の廊下が伸びて東側の階段へと通じています。床面積が56.25坪の2階正面側には左から22.5畳、33畳、18畳の寝室が並び、中央と右側の寝室の間には1.5坪大の押入れがあります。また、1階の4畳半の自習室の上部は物置と左側の寝室の押入れになっています。

 正面の1階の引違い窓は、自習室部分に欄干付で2つ、食堂部分の出窓に4つ、台所部分に3つ並んでいます。また、脱衣所と浴室に引違い窓が1つずつあります。2階は、左側と右側の寝室に2つずつ、中央の寝室部分に5つ、欄干付引違い窓が並んでいます。

左側面(西面)の1階の引違い窓は、26畳の自習室部分に3つ並び、4畳半の自習室部分に1つあり、それぞれに欄干が付いています。また、洗面所と小便器部分にそれぞれ引違い窓が1つあります。2階の引違い窓は、寝室部分に3つ並び、物置部分に1つありますが、欄干は寝室部分にのみ付いています。

右側面(東面は)は、1階に引違い戸と引違い窓が1つずつあります。また、洗面所前の廊下と浴室に引違い窓が1つずつ、浴室の風呂釜部分に片開き戸が1つあります。2階の寝室部分には欄干付引違い窓が2つ並び、階段の踊り場に引違い窓が1つあります。

背面(北面)は、1階の自習室と玄関ホールに1つずつ、廊下に2つ引違い窓があります。また、便所の3つの個室にそれぞれ地窓と小振りの引き違い窓があり、浴室にはガラリと煙突があります。2階には引き違い窓が、西側の階段に1つあり、廊下に6つ並んでいます。

 1994(平成6)年に2階部分の屋根が、1996(平成8)年に便所が男女別に、1999(平成11)年に台所がそれぞれ改修され、窓や玄関両開き戸もアルミサッシに改修されています。しかしながら、趣は建築当時のままとなっており、テレビドラマにも時々登場する昭和時代の田無農場のシンボル建物となっています。

 現在は宿舎としての役目を終え、セミナー会場や会議室として利用されています。


⑪「水禽池」(すいきんち)と「原初代農場長胸像」




建物各部の名称





「単位換算」

1尺(しゃく)≒30.3 cm

6尺=1間(けん)≒1.82 m

1坪(つぼ)=2畳(じょう)=1間×1間≒3.31㎡